祈り
暫く更新が滞りました。
先日、新月の日、バリでは外出自粛の上に更に自粛を要請し、特別なお供え物を捧げ家族全員揃って自宅にある屋敷寺で祈るようにおふれが出ました。
この日、バリのマザーテンプルでは、コロナの被害が少なくて済むように僧侶が集まり儀式をしました。
そして、そこに参加しない一般のヒンドゥー教徒は自宅で祈る事を義務付けられました。
太鼓の先生はわたしはバリには家族が居ないので先生のご家族と時間を合わせて自宅の屋敷寺で1人祈るように連絡をくれました。
ヒンドゥー教徒じゃない事はすっかり忘れていたのでしょうか?(笑)
この時、ヒンドゥー教の最高司祭からは「決して自分の事だけを祈ってはいけない。世界の全ての人の安全と幸福と地球に生きる全てのいのちに対し祈る事」と注意があったらしいです。
太鼓の先生からもそれを何度も言われました。
先生から聞いた話しですが、バリヒンドゥーはどんな名目の儀式であっても、必ず
地底層・地上(大地)層・人間や他の生き物のいる層・そして神々の住む天上界と4つの層に対して供物を捧げて祈るそうです。
それは日本語で言えば『万物』にあたると思います。
万物の見えない力がある事で私達は生きていられるという至極当たり前の事を祈るという行為を通して思い出す必要が、ヒンドゥー教徒以外にも、特に万物を神々とみなしていた日本人はある、と最近は良く思います。
そして、祈りを通して、その万物、生きとし生けるものの中に人間は加わっていて、決して一人で生きているわけではない事
私も万物を構成しているいのちであり、
あらゆるいのちを生かし、あらゆるいのちに生かされている事、
そして、あらゆるいのちがバランスを取りながら生きている事を思い出す必要があると思います。
専門的な知識も無しに言ってはいけないとは思いますが、私達人間にとって都合の良さを求めた結果、バランスを崩し現状のような突出したチカラを持つウイルスが現れたりするのでは?と思います。
そして、私という万物の一つが幸せに生きるためには結局は、他のいきもの全てが幸せである必要があるのです。
祈りについては、色んな考えがあると思いますが、私にとっては"祈り"とは、ここに書いたような事を指しています。
が、これも、コロナ騒動によって当たり前が当たり前でなくなり、考えさせられる事が多々あったの事で明確になったと言えます。
バリは5月末まで引き続き、外出自粛が決定となりました。
まだまだ考える時間がたっぷりありますね(笑)
新月の日の朝の太陽
屋敷寺から撮影しました。
儀式の成功を太陽も応援してくれたように思います。